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10月, 2017の投稿を表示しています

中納言家持の姥がゑとき

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私が北斎の『百人一首姥がゑとき』を 講義で説明してほしいと言われた時、 手元にあった画集の中で、一番 『これは説明したくない(できない)』 と思った作品が、中納言家持の絵解きでした。 ーーーーーー 中納言家持 かささぎの 渡せる橋に おく霜の 白きを見れば 夜ぞふけにける ・・・・。 ・・・・・・。 私の和歌解読 ↓ 「 天の川の星々が霜のように 白く輝いているのを見やっていると 宮中の橋の霜の白さが暗がりに際立ってきた ああ、夜が更けてゆく 」 ・・・・ どう考えても、外国の船がメイン。 『ムリ!これは辞めとこう!』 というのが正直なその時の気持ちで 暫く錦図を睨んだのち、 別の作品に向かったのでした。 それが、百人一首姥がゑときを 授業で説明していた時に スライドで最期にポロっとでてきてしまったのです。 「これは・・・とても読解が難しく、 北斎の意図が私にはよくわかりません(正直)」 笑うイタリア人たち 仕方なく、七夕の説明をし、 私がこの作品を絵で表現するとしたなら 『(外国から渡ってきた)カササギが天に一列に連なり まるで空に橋をかけたように見え 明け方に白々と霜が冴えわたっている図なんですが この作品には異国の船が描かれているばかり・・・』 えー、とその時生徒さんの間から声があがり イタリア人の女性が笑いながら 「 私には分かりましたけど。」 と言ったのでした。 「北斎が描きたかったのは、外国の鳥が橋を作る =外国人が日本への開国を求めている、 日本の夜明けじゃないですか」 思わず、女性と壁に投影されている錦絵を 変わるがわる 凝視してしまいました。 日本の夜明け・・・ その時の衝撃は雷に打たれたというか(北斎だけに 笑)、 今まで合わなかった視界の焦点が ハッキリあったような驚きがありました。 私は何を見ていたんでしょう? 激しくそびえ立つ断崖は江戸幕府。 そこに続々と到着する外国の船。 しらじらと明けてい

小野小町の姥がゑとき

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小野小町 花の色は うつりにけりな いたづらに わが身世にふる ながめせしまに ーーーーーーーー イタリア人に、北斎の『百人一首姥がゑとき』を 説明してほしい、と依頼された時、 最初に頭に浮かんだのはこの歌でした。 個人的にこの和歌が好きだったというのもありますが、 日本の歴史に残るような美女で才女、 となるとイタリア人の想像力を大いに くすぐるのではないか、 という軽い下心もありました。 が。 北斎の錦絵を見て、私は軽いショックを受けました。 美女がいない … 豪華な桜吹雪もない … 舞台は奈良時代ではなく、 北斎の生きる江戸時代の庶民の暮らしを 切り取ったように見えます。 どうしよう … (限りなく弱気) 「 花の色は、色あせてきてしまった。       私がこの世で物思いにふけり     春の長雨が降り続いているあいだに 」 この歌は、美女である小野小町が、 時とともに老いていく自分の姿を、 桜の花に例えたもの … と言われています。 美しさは永遠には続かないのだと。 なんと儚いものなのだろう、と。 気を取直して、北斎の錦絵を見ていると、 貧弱ともいえる若い桜の木を 見やっている女性の姿が浮かび上がってきます。 一瞬若い女性と見間違えたのですが、 手には杖をつき、腰が曲がっています。 それでも、その背中には何処か気品があります。 正直、 ハッ としました。 (北斎にハリセンボンで後頭部を打たれた感じ) この作品を描いた北斎は 76 歳前後 … 小野小町は桜が散る姿に老いゆく自分を嘆きましたが、 老いるということは嘆くべき事なのでしょうか? 人生の出会いや別れを経験し、荒波をくぐり抜け、 今は働きものの家族に囲まれて、 日々を大切に生きる女性。 その姿は、すっきりと美しく、若さが通り抜けた後の 悔恨は微塵も感じられません。 背中越しなので、彼女の表情は読めませんが、 若い桜の未熟さを 優しい眼差しで見守っているように思えます。 ああ、私もそう思っていた時もあった

阿部仲麿の姥がゑとき

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それでは、私が『Passione Giappone 』の講義で行った、 北斎の絵解きを数回に分けて投稿しますね。 ————— 阿倍仲麿 天の原 ふりさけ見れば 春日なる 三笠の月に 出でし月かも 北斎の「百人一首姥がゑとき」 27枚現存する錦絵の中で、一番理解しやすく、 イタリア人にも分かりやすいと思った作品です。 遣唐使として唐に渡り、玄宗皇帝に大変気に入られ、 長く側で仕えた阿部仲麿でしたが、 35年の滞在の末、ついに日本への帰国を許されて、 出発前の宴の席でこの歌を詠んだ 構図になっています。 「 天の原を見上げれば、月が美しく輝いている。 あれは故郷の春日、三笠山にかかる月と 同じものなのだなぁ。」 遠い日本を思い、和装で月を眺める仲麿。 35年、異国で過ごすというのは、 さぞ郷愁が募ったことでしょう。 北斎の描くこの作品には、天上に輝く月は構図の中になく、 海原に映り込んだ月のきらめきがあり、 その光に向かってふらふらと二艘の船がたゆたっています。 私はここに北斎の、 仲麿が日本へ帰国することが叶わなかった 運命の示唆を感じます。 天上の月は、たしかに故郷から見上げた月と同一のもので、 春日の山からもきっと美しい月を 同時に見上げることができたのでしょう。 けれど、構図の中には、波立てば消えてしまう 幻のような月が描かれているのみです。 彼の乗った船は沈没し、命こそ助かったとはいえ、 一度も日本へ帰ることなくその命を終えた仲麿。 北斎の彼への憐れみ、深い慈愛を感じるのは、 同じように外国で故郷を思う私だからでしょうか。

百人一首姥がゑとき

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こんばんは。 昨夜は日本美術史講座『 Passione Giappone 』 第二回の講義をしてきました。 今回は劇場から普通の教室に移ったこと、 浴衣を着ずに行ったこと(笑)、 メインの美術評論家の先生と一緒に授業をすすめたこと、色々あいまって割と リラックスして授業をすすめることができました。 とはいえ、私が受け持った部分は北斎晩年の作品 「百人一首姥がゑとき」 百人一首を姥が子供にわかりやすく説明できるように、 和歌に絵をつけるという、 当時流行りのスタイルだったのですが 北斎の絵解きのなんと難しいこと! 😱 先ずは和歌についての説明をし、 イタリア人でも分かりやすい作品を幾つか選んで 奥深い講義を展開しようと目論んだのですが、 当時 75 ~ 78 歳であった北斎の発想は奔放で型にはまることがなく、 日本人で和歌の意味をそれなりに熟知している私でも 作画との関連性がなかなか分からない … 実際、絵で和歌を説明するのは難解だという 版元の解釈で、 100 の超大作になるはずだったこの作品は 実質 27 枚しか発行されませんでした。 (北斎はこのシリーズにとても意欲的だったようで、 下図は 64 枚残されています) この難解シリーズと美しい和歌を どうやって説明したら良いのか … かなり苦労しましたが、授業中に驚くような発見もあり、 本人としては絵かきとしても実のある授業となりました。 久しぶりに雷に打たれたような(笑)一夜。 私が使った幾つかの作品を これから少しずつアップしていきますね。 写真は 歌人、参議篁 わたの原 八十島かけて 漕ぎ出でぬと 人には告げよ 海人の釣船 こちらの解説はなし 😁   海人と海女を掛け合わせてあります。 あえて書くなら、参議篁は当時の嵯峨天皇の怒りをかい 二年間の島流しにあっています。 この歌は連れて行かれる船上で詠んだとのこと… さて、どんな景色が見えますか?

'Passione Giappone' 二日目

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今晩、第2回目の日本美術史 浮世絵講義があります。 今回は北斎が描いた『百人一首うばがゑとき』 和歌の説明をイタリア語でしなくてはいけないのですが、北斎の絵解きが難しいのなんの! 未だに悪戦苦闘中…

画狂老人卍

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『何故、過去に日本人は 度々名前を変えたのか。』 『北斎は30回作家名を変えているが、何故?』 という質問が来ました。 明治に入るまでは、皇族、貴族、 武士など元服するときに幼名を改め、 または昇進したり、位の高い方から名を賜ったり、 仏門に入ったりして名前を変えました。 新しい名前を得るということは、出世魚のように縁起が良いものとされていたのですが… (諱とあざな、という呪術的な概念もありますが、 それは省きます) 北斎は、その人生30回画号を変えています。 絵かきにとって名前を変える、 というのは 一からやり直すという危険な掛けでもあります。 一般的には、北斎が自分の腕試しのために 名前を変えていった、 同じところに留まるのをヨシとしなかった、 という解釈がありますが それとは別に金銭に全く興味を示さずに、 いつも貧乏であった北斎が  ( 絵の収入はお金の勘定もせずに 机の上に放っておき、 お米や何か入り用があった時にそのまま包を渡して 勘定を済ませていたとのこと)、 借金を解消するために自分が使っていた画号を 弟子に売り渡していた、という事実もあります。 北斎について調べていくと、 常識に縛られない破天荒ぶり、 奇人であることで周りがギョッとすることを 面白がるところ、 位の高さなどものとも思っていなかったこと、 なによりも絵を描くことを愛していたこと…を知り、その人と様に魅了されます。 北斎の最後の画号は「画狂老人卍」でした。 こんな変な画号で生涯を終えた90才の老人の 満足な高笑いがあの世から聞こえてきそうです。

Passione Giappone 初日

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昨夜、プラート市で開催された『Passione Giappone』で初日の講師を務めてきました。 3回に分けて開かれる日本美術史のテーマは日本美術と西洋美術の関わり。 特に江戸時代に黄金期を迎えた浮世絵をメインに話を発展させていきます。 私の導入部分は、「日本画と洋画との違い」そして「江戸庶民の芸術」 「浮世絵の作られ方と流行、海外に渡った背景」・・・ ざっくり書くとこんな感じですが、作品のテクニックから江戸時代の背景、 鎖国の定義、徳川家、庶民の文化などきちんと説明しなくてはならず、 途中、美術評論家の方に手伝ってもらいながら、辛抱強く説明することになりました。 イタリアでの講義は、分からないことがあったり、聞きたいことがある場合、 生徒がどんどん質問していくのが常で、作品の背景にある哲学や日本人と自然のかかわり方、 禅や茶道、仏教にまで多岐に質問が飛び交います。 拍手喝采のあと講義は終了しましたが、 クタクタになって家に帰った私は 講義内容を一晩中反芻することになり、とても寝苦しい一晩を過ごしました。 一通り知識はあるものの、それをきちんと外国語で説明するには物事に対する明確な認識が必要で、 あやふやな気持ちは言葉にも態度にも出ますし、第一相手に伝わらないことが多いです。 今朝、起きてまっさきに思ったのは 『 もっと勉強しなくちゃ!』 という事でした。 外国に出ている日本人が、どんどん日本人らしくなっていくのは 日本を知りたいと思う外国人の質問に答えたい、という気持ちから 日本への造詣を深めていく傾向があるのかもしれません。 2回目の講義にも参加することになったので、頑張りたいと思います