小野小町の姥がゑとき
小野小町
花の色は うつりにけりな いたづらに
わが身世にふる ながめせしまに
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イタリア人に、北斎の『百人一首姥がゑとき』を
説明してほしい、と依頼された時、
最初に頭に浮かんだのはこの歌でした。
個人的にこの和歌が好きだったというのもありますが、
日本の歴史に残るような美女で才女、
となるとイタリア人の想像力を大いに
くすぐるのではないか、
という軽い下心もありました。
が。
北斎の錦絵を見て、私は軽いショックを受けました。
美女がいない…
豪華な桜吹雪もない…
舞台は奈良時代ではなく、
北斎の生きる江戸時代の庶民の暮らしを
切り取ったように見えます。
どうしよう…(限りなく弱気)
「 花の色は、色あせてきてしまった。
私がこの世で物思いにふけり
春の長雨が降り続いているあいだに 」
この歌は、美女である小野小町が、
時とともに老いていく自分の姿を、
桜の花に例えたもの…と言われています。
美しさは永遠には続かないのだと。
なんと儚いものなのだろう、と。
気を取直して、北斎の錦絵を見ていると、
貧弱ともいえる若い桜の木を
見やっている女性の姿が浮かび上がってきます。
一瞬若い女性と見間違えたのですが、
手には杖をつき、腰が曲がっています。
それでも、その背中には何処か気品があります。
正直、ハッとしました。
(北斎にハリセンボンで後頭部を打たれた感じ)
この作品を描いた北斎は76歳前後…
小野小町は桜が散る姿に老いゆく自分を嘆きましたが、
老いるということは嘆くべき事なのでしょうか?
人生の出会いや別れを経験し、荒波をくぐり抜け、
今は働きものの家族に囲まれて、
日々を大切に生きる女性。
その姿は、すっきりと美しく、若さが通り抜けた後の
悔恨は微塵も感じられません。
背中越しなので、彼女の表情は読めませんが、
若い桜の未熟さを
優しい眼差しで見守っているように思えます。
ああ、私もそう思っていた時もあった。
でも、それは、若さゆえの奢りだったのよ、と。
この歌を詠んだ小野小町を未熟な桜に例え、
人生を生きた老女がそれを詠む。
北斎の描く人生はなんて豊かなんでしょう。
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とは、読み解きましたが、
事実はまったくわかりませんよ(笑)
イタリアゆえ、資料はまったく皆無で…
いつか、日本の図書館で関連図書を読み漁ったり、
専門家の話を聞きたいものです。